2012年御翼8月号その2

2つのJ(JapanとJesus)

 日露戦争から第一次世界大戦を経て一等国になった日本、大正デモクラシーの陰でアジアの民族自決の高まりに向き合っていく。やがて戦争へと向かう時代の激流に抗して、非戦と平和を唱えた思想家がいた。内村鑑三と新渡戸稲造である。キリスト教と出会った内村は、2つのJ(JapanとJesus―日本とイエス)を巡る葛藤をどう乗り越えたのか。内村が日露戦争に反対したのは、軍部が台頭して行く日本の姿を予見したからであった。太平洋の橋になろうとした新渡戸は、アメリカとの戦争回避に力を尽くす。「日本が戦争に頼らない道を進むことで、内村と新渡戸の遺産は行かされるのです」と、アマースト大学准教授トレント・マクシー(日本近代史)は言う。日露戦争前夜、内村は非戦論を打ち出した。 内村鑑三「戦争廃止論」 余は日露戦非開戦論者である許(ばかり)りでない。戦争絶対的反対論者である。戦争は人を殺すことである、爾(そ)うして人を殺すことは大罪悪である。爾(そ)うして大罪悪を犯して個人も永久に利益を収め得よう筈(はず)はない。 「萬朝報」(明治36年6月30日)より抜粋  


 しかし、1904年、日本はロシアとの戦争に突入、当時の国家予算の7年分の17億円を費やして勝利を収める。戦死者は5万5千人、負傷者は14万人を超えた。日露戦争の半年前、日本国内が開戦論になっている中で、1903(明治36)年9月の萬(よろず)朝報(ちょうほう)に、「殺す者は殺さる」と題して、内村はこう書いている。「日清戦争以来、日本は軍人に富のすべてを捧げて来た。今、ロシアを攻撃するなら、軍人は更に多くの負担を国民に強いるだろう。その時には、僅かの自由も憲法も、煙となって消えて了(しま)ひ、日本国はさながら一大兵営と化し、国民は米の代わりに煙硝(えんしょう)を食い、麦の代わりにサーベルを獲(か)るに至るであろう」と。これは、昭和10年代の日本が、アメリカとの戦争を準備する過程で、憲法の解釈を変えてしまうことを予見した、内村の預言者的な発言である。日露戦争の頃の日本は、国家予算の7〜8割を軍事費につぎ込んでいた。国民の食糧や福祉の代わりに、軍事予算を費やしていた国の末路を内村は案じた。その予想どおり、日本は一大兵営(兵の居住する所)と化し、太平洋戦争への道を突き進む。内村は40年先の日本の姿を見通していたのだ。


 内村鑑三がキリスト教と出会ったのは、130年前の札幌農学校でのことである。当初、内村はキリスト教への入信をためらっていた。「私は早くからわが国をどの国よりも尊び、わが国の神々を拝して、異国の神々を拝してはならないと教えられていた。死んでも異国の神々に頭を下げることはできないと私は信じた」(「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」より)。内村に強い影響を与えたのは、父・宜之(よしゆき)だった。儒学者として高崎藩主に仕え、内村に武士道と儒教を教え込んだ。悩んだ内村は、札幌郊外の北海道神社で、キリスト教からわが身を守ってくれるよう、ひれ伏して拝む。しかし、内村も先輩らの圧力から、入信の誓約書にサインをする。すると、彼の気持ちが軽くなった。「神は唯一であって多数ではない」と教わったことで安心したのだという。札幌農学校を卒業し、農商務省に勤めていた23歳の内村は、キリスト教の本質を知りたいと、1884(明治17)年、職を捨て、アメリカへ渡る。しかし、キリスト教文明の国アメリカへの期待はすぐに裏切られることとなる。一行の一人がすりに遭ったのだ。アメリカへの幻滅を感じながら、内村は、先進的な障害児教育を行うエルウィン養護院(ペンシルバニア州)で看護師として働いく。当時職員は、24時間子どもたちの一緒に暮らし、食事や着替えの介護から、排便の世話まで何でもした。クリスチャンだった彼らは、すべての子は神の子だという信念から、献身的に尽くしたのだ。内村は、ジャップとさげすまれながらも、汚れなき心を得るため、子どもたちの介護に努めた。しかし、他の職員たちが何の見返りも期待していないことに気づく。内村は、自分のために働いているに過ぎない、と苦しんだ。利己心を罪と感じ、養護院を去った内村は、クラークも卒業したアマースト大学(マサチューセッツ州)で学び直すことにする。ここで内村の信仰に劇的な変化が起きた。アマースト大学の学長ジュリアス・シーリーは、利己心という罪に苦しむ内村に、「心の中ばかりを見てはいけない」と諭す。「君は君の外を見なければいけない。何故己に省みることを止めて、十字架の上に君の罪を贖ひ給ひしイエスを仰ぎ瞻(み)ないのか」(「クリスマス夜話」)と。内村は後に、シーリーへの手紙に、シーリーの言葉によって、それまで苦しんでいた罪を意識が消え、心の平安を得ることができた、と述べている。「内村にとって、神との関係が大きく変わりました。律法によるのではなく、神の無償の恵みを受けることで、神への信仰は活き活きとして来るのです。内村は神を間近に感じるようになりました」とアマースト大学トレント・マクシー准教授は言う。3年余りのアメリカでの体験で、内村は信仰への確信を得たのだった。


 2つのJ、JesusとJapanに向き合い続けた内村は、こう記している。「武士道の台木に基督教を接いだ物、其物(そのもの)は世界最善の産物であって、之に日本国のみならず、全世界を救うの能力(ちから)がある」(『武士道と基督教』)と。内村は、真のキリスト教文明国と成り得るのは日本であると期待していた。武士道も含め、日本の伝統文化のもとは聖書にあることが分かってきた今こそ、内村の夢見た日本国を実現し、神に遣わされた者としての自覚を持ち、福音を全世界に宣べ伝える国となろう。

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